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市立尼崎高校野球部監督・竹本修さんインタビュー

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竹本修さん

●野球をあきらめ、大学ではバレー部に

-熊本出身の竹本さんは、九州学院高校へ進学し野球部へ。監督から「投げ方がいいな。一緒に甲子園を目指さないか」と言われ「コロッと心を持っていかれた」という。しかし、結果はベンチ入りもできず。さらに肩を痛め、中京大学進学後は野球をあきらめバレー部に入部した。

竹本さん:「部員はほぼバレー経験者。先輩から『お前背が高いな。(バレーの)ポジションはライトかセンターか』と聞かれ『はい、ピッチャーです』と答えてしまった。今思えば世間知らずというか無鉄砲というか」。

●「恩人」が導いてくれた人生

-しばらくして、バレー部監督から呼び出され将来どうするのかと問われた竹本さん。当時はバブル景気、社会人野球チームも多かった時代。もう一度野球をやるため社会人野球へ進みたいと答えると「お前アホか。いいから野球部へ行け」と一喝。バレー部全員から「プロを目指せ」と書かれた色紙まで手渡され、笑顔で見送られたという。

竹本さん:「実は、当時中京大3年だった宮崎裕也(現・北大津高校野球部監督)さんが、バレー部に元野球経験者がいることを聞き付け、監督に『よかったらうちへ入れてくれないか』と頼んでいたんです」。

大学卒業後、阪急(後のオリックス)に入団。しかし結果は4年で現役生活を終えることに。お世話になった九州学院の坂井宏安監督に今までの感謝を伝えようと電話すると「待っとけ」の一言。一週間後、球団から「スーツで来い」と連絡が。

竹本さん:「突然フロント入りが決まったんです。坂井監督が親交のあった※根本陸夫さんに連絡してくれて、根本さんが球団に話をしてくれたおかげで残ることができたんです。野球では挫折ばかりでしたが、『野球の恩人』に本当に恵まれているんです」。

※根本陸夫 元プロ野球選手、監督、野球解説者。元西武ライオンズ編成・管理部長、元福岡ダイエーホークス代表取締役専務、代表取締役社長。

●フロントでの気付き 「周囲の支えがあってのプロ野球」

-球団職員になると、球場でのあらゆるトラブル対応に追われる日々。酔っ払い同士のけんかの仲裁、清掃作業、時には客の前で頭を下げたこともあったという。

竹本さん:「選手が野球ができるのは『たくさんの人の支えがあったから』と気付いたんです。現役時代は謙虚さとか正直さとかどうでもよくて、悪魔に魂を売ってでも野球さえ上手くなれればと思っていました。でもよく考えたら、すぐに1軍に上がれる人は2軍に落ちた時、10歳以上年下の選手に囲まれた中でも大声で『さあ頑張っていこう』とランニングする選手だった。ブツブツ言っているようなヤツはそのまま消えていったなと。心の持ちようで変わっていくものだと改めて知り『自分はなんてバカだったのか』と」。

●小橋先生との出会い 「野球はやってみないとわからんぞ」

-球団職員を経て、保健体育教諭に転職。武庫工業(現・武庫之荘総合)に赴任し、当初はサッカー部の顧問を務めていた。ある日他校サッカー部の練習を見学しようと出向いた先で、当時の市尼野球部監督・小橋洋さんと出会った。「もうすぐ市尼に体育科ができる。市立なら異動も少ないし、じっくり腰を据えて監督ができるぞ」。突然の話に驚いた竹本さん。その後1999年に市尼に転任し、1年半ほど小橋さんの下で野球部部長を務め、2000年秋から監督に就任した。

竹本さん:「就任した当時は、相手チームの戦力を見比べる日々。そんな僕に小橋先生は『弱いとか強いとかではなく、野球はやってみないとわからんぞ。もっと冒険しろ』と言ったんです」。

-竹本さんも「やってみないとわからない」と選手達に言いつつも、強い相手を超えるための練習を求め、「このチームには負けるけどこっちには勝つな」と常に比べていたという。就任して56年は甲子園まであと一歩という結果を残し、自分のやり方を否定することもなかったが、だんだん成績が下降しベスト16に残るのがやっとという状態に。

●監督から部長、再び監督へ 数々の恩人によって再度得た「気付き」

2012年から監督を辞し部長となった竹本さん。新監督に遠慮し、グラウンドから足が遠のいたという。誰もがクラブを受け持つ体育科の課長という立場でもあったため「自分は何をしているのだろう」と悩む日々。グラウンドから練習する声が聞こえる度に辛くなり「転勤したほうが」とまで追い込まれた。そんな中、親交のあった日大三高の小倉全由監督から「監督辞めたのか」と聞かれたという。「成績悪いので」と答えると、小倉監督はそれ以上理由を聞かず、自身が関東一高野球部監督を解任された時のエピソードを話し始めた。

竹本さん:「監督をクビになった時、日大三高OBの根本さんから『小倉、よかったな。やっとお前が野球以外で認められる時が来た。今は辛抱して教員の仕事を全うしろ。チャンスは必ず巡ってくる』と言われましたわ、と笑いながら僕に話すんです。それを聞いた時『自分に与えられた仕事をきちんとやらなければ。何を勘違いしていたんだ』と思い知らされました。その後、幸いなことに2年で監督に復帰することができたんです」。

-すでに当時、兵庫県内の公立校が甲子園出場を続々と決めていた。甲子園に出場できるのはラッキーが重なったわけじゃない。棚ぼたでモチを拾うにも「棚の近くにいる努力」をしなければ拾えない。ではその努力とは何だと考えた時、相手の実績で右往左往してはいけない、やはり野球は「やってみないとわからない」に辿り着いたという。

竹本さん:「すぐに強豪チームとの練習試合を積極的に組みました。もう相手チームを見て『負けるかな』とか考えないことにしました。結局、それに一番反応していたのは自分だったんです。監督自身が本気で『やってみないとわからない』と思わなければ勝てない。とにかく勝ちたい、これを逃したら二度と勝てないぞ、勝つことを前提に一生懸命やるぞと選手に伝えなければと。小橋先生の言葉の意味をやっと学ぶことができたんです」。

練習風景

33年ぶりの甲子園出場へ 一度だけの「神頼み」

2016年夏。兵庫大会で西宮今津との勝負が延長で再試合となった影響で、厳しい暑さの中での3連戦という過酷な状況となった市尼。「再試合になって負けずによかったけれど、次の勝負はかなり厳しいかな」との考えがよぎった竹本さん。西宮今津に勝った後、間をおかずに報徳戦という流れになったが、この時の選手達はとても落ち着いていたという。

竹本さん:「本当に選手たちが落ち着いていたんです。修羅場を乗り越えたら人は強くなるなと感じました。でも明石商との決勝では、たまらず携帯に入っていた小橋先生の写真を見ました。小橋先生から『優勝したらお前は球場で胴上げされる。だから球場の外で俺を胴上げしてくれよ』と約束していたんです」。

20152月、竹本さんを市尼へ導いた小橋さんは天国へ旅立った。葬儀では弔辞を求められ、「OBでもない自分に資格はない」と固辞したものの、OB会の一人から「必ず読め」の一言。小橋先生の息子・正佳さんからも強く背中を押された。

竹本さん:「『先生はいつも明るい太陽。ギラギラ照りつける太陽となって見守ってください。必ず甲子園に行きます』と弔辞を読みました。決勝でそのことを思い出し、思わず写真を見て『勝たせてください』と本気で先生に頼みました。『神頼み』はその一度きり。何度もお願いしたらさすがに先生が疲れてしまう」。

●甲子園での選手宣誓 「全国で一番緊張した高校生」

-見事明石商を下して甲子園出場を勝ち取った市尼。甲子園の組み合わせ抽選会が行われる中、選手宣誓の立候補者を募る場面でチームに思いもよらない出来事が起こった。

竹本さん:「何人もの手が上がる中で、拳を握りしめ高く突き上げる手が見えた。市尼では挙手する時、拳を握って上げるんです。それを見て、市尼選手とスタッフ陣営は驚いた。キャプテンの前田が立候補すると誰も聞いていなかったんです。抽選して『一斉に開けて下さい』と言われて、とぼけた顔をしてまた手を挙げて。市尼陣営は大いに盛り上がりました」。

-選手宣誓の内容は、尼崎市制100周年と高校野球101年目、熊本地震とその被災地を訪れた経験などを織り交ぜながら、前田選手が構成した。一人近所の公園で深夜まで練習、暗記していた前田選手を、竹本さんはずっと見守っていた。

竹本さん:「これで前田は試合で活躍すると思いました。前田は87日に全国で一番緊張した高校生。こんな修羅場をくぐったのだから必ず活躍すると。入学した時は要領のいい子という印象でしたが、キャプテンになってその要領のよさをチームに使うようになった。要領がいいってことは周りが良く見えているということ。僕が言う前に言いたいことをチームに伝える、嫌なことも率先してやるといった具合に、成長をどんどん感じました。選手宣誓だっていろんな葛藤や緊張もあったはず。あれだけでっかいことをやってのけたのだから、神様から1000ポイントくらいもらったんじゃないかな(笑)。さまざまなことを積み重ねて、あの終盤の粘りへと繋がっていったのだと思います」。

●経験したことのない応援 地面から声援が

-甲子園3日目の89日に迎えた初戦、青森・八戸学院光星との試合は、市尼が1点を守る6回に4失点を許し逆転される展開に。迎えた9回裏、「最後まで粘ろうという気持ちは誰にでもあった。でも選手一人一人にはいろんな思いがあったはず」と竹本さんは振り返る。

竹本さん:「もっと試合していたい、負けるのは嫌だとかそれぞれあったはず。そんな中、パッとスタンドを見たら、チームカラーのオレンジが目に入ってきて、地響きするほどの応援が聞こえた。『見てみ。お前ら幸せやな。こんなに応援してくれるんやで。こんな応援見たことも聞いたこともないやろ』と選手に声を掛けました。選手たちはスタンドを振り返ってから『はいっ』と笑顔でこちらを見た。続いて先頭バッターの前田がカーンと打った時には、もう一段階ボルテージが上がり、一気に『勝てる』と。声援が地面から聞こえるほどの後押しをもらった。必ずサヨナラで勝てるという気持ちで、選手も頑張ってくれた。勝利に繋がらなかったのは自分の責任。選手たちは本当に頑張った」。

●褒められる環境からの悪循環 たくさん見てきた転落

-市役所や商店街にも横断幕や応援メッセージが掲げられ、「ありがたいと思うと同時に、今まで以上に気を引き締めなければ」と竹本さん。大会期間中は次々と記者が訪れ、選手にインタビューするような状態。どこへ行ってもとにかく褒められる環境だったという。

竹本さん:「とにかく褒めちぎってくれるんですね。普通の高校生だった子どもに大人がインタビューするわけですよ。ですから僕は選手に『みんな仕事で来ている。勘違いするなよ、早く現実に戻れ』と言っています。あの舞台に立ったことで、たくさんの人に褒められたと同時に、いろんな意味で『見られている』環境下に置かれたわけです。数人で電車に乗って話すだけで『野球部うるさいな』とか、『野球部が歩きスマホしていている』とか。外での振る舞いで一瞬にして評価が下がることになるんです。半年もすれば『甲子園出場』なんて世間は忘れてしまう。社会に出たとしても役立つわけじゃない。現役時代からチヤホヤされて狂ってしまった人をいっぱい見てきたからこそ、選手には同じ思いをさせたくないんです。甲子園出場は彼らが勝ち取ったもの。ただ、この経験を人生に生かすには、今後の振る舞いが大事になっていくんです」。

●野球は勝負、結果が大事 「やっぱり勝ちたい」

-夏が終わり3年生は引退、体育科の生徒たちは大学などで野球を続けるため、引き続き練習を続けるが、秋からの大会は12年生のみ。今回の甲子園出場メンバーには2年生が多かったこともあり、次の選抜への期待も当然高まりつつある。

竹本さん:「夏はたまたまラッキーだったなと言われると悔しいし、選手がかわいそう。やっぱり『これだけ力があったんだ』と示したいし、何より勝ちたい。高校野球は教育の一環という面から、地域のために貢献できる人を育てる『人材育成』が課せられるけれど、野球は勝負事でもあり、結果は表に出る。体育科を持つ市尼を世間に認めてもらうには、やっぱり勝たないといけない。僕がプロ出身の監督ならなおさら」。

50歳過ぎてから泣ける幸せ

-前田選手が選手宣誓で伝えたかったのは「自分には野球しかできない。一生懸命野球をすることで、いろんな人へ幸せと勇気を持ってもらうことがこの上ない幸せ」ということだと竹本さん。

竹本さん:「この年で本気で泣いて野球ができるっていうことは本当に幸せ。兵庫大会決勝で恥ずかしいほど泣いてしまったけれど、その時は今までの苦労が全部吹き飛ぶような感覚でした。まあ、元から苦労だなんて思ってないですけどね。勝ったにせよ負けたにせよ、選手と一緒に泣けて勝利を共に味わえるっていうのは本当に幸せですよね」。

声を出し練習に取り組む選手ら

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